AC/DC
AC/DC(エーシーディーシー)は、アンガス・ヤング、マルコム・ヤングのヤング兄弟を中心にオーストラリアのシドニーで、1973年12月に結成されたロックバンドである。 バンド名の由来は掃除機の裏側に「AC/DC」と書かれているのを見て、ヤング兄弟の姉が当時から大音量で演奏していた彼らに対して、掃除機に例えて名付けたそうだ。 「AC/DC」とは「交流・直流兼用」の意であるが、実はバイ・セクシャルを表す隠語でもあったため、バンド初期にはよく勘違いされてゲイバーから出演依頼が来たという。
スコットランドのグラスゴーで生まれたアンガス、ジョージ、マルコムのヤング兄弟が家族と共にオーストラリアのシドニーに移住したのは1963年のことである。
一番最初に楽器を手にしたのはジョージであった。その後、彼は60年代にオーストラリアで有名であったThe Easybeatsのリズムギターとして活躍する(ジョージとThe Easybeatsのリードギタリスト、Harry Vandaはその後、初期AC/DCのアルバムプロデューサーとして活躍する事となる)。アンガスとマルコムが彼に続くのに時間はさしてかからず、兄弟が組んだ最初のバンドの名はThe Velvet Underground(ニューヨークのパンク・バンドとは同名異バンド)。
1973年11月、マルコムとアンガスはベースにLarry Van Kriedt、ボーカルにDave Evans、ドラムにColin Burgessを迎えAC/DCを結成、初のライブは1973年12月31日、シドニーのChequersというクラブで行った。程なくしてバンドはEMIがオーストラリアとニュージーランドで配給を行っていたローカルレーベル「Albert Records」と契約を結ぶ。最初期のラインナップは安定しておらず特にドラムとベースは頻繁に入れ替わっていおり、Colin Burgessにいたっては数週間しか在籍しなかった。この状態は約1年程続いたようである。またアンガス兄弟はゲーリー・グリッターの様なグラムロッカーからの影響が強かったDave Evansはバンドに合っていないと結成直後から考えおり、バンドのマネージャーだったDennis Laughlinが彼の代わりにステージに上がるという事もあった(この事がボーカリスト交代劇の伏線となっておりDave EvansはDennis Laughlinを酷く恨んでいたという)。
バンドのトレードマークとも言えるアンガスのスクールボーイスタイルの衣装はこの頃から既に試されており、アンガス自身の中学校の制服とシドニーにあるアッシュフィールド高校の制服を使用していた(このスタイルは彼の姉であるマーガレット・ヤングの提案によるものである)。ただ当時はこの衣装だけでなく、ゴリラや怪傑ゾロ、スーパー・アングなるスーパーマンのパロディーの様な物まで衣装にしていた。
この頃、バンドの器材車のドライバーをしていたのはあのボン・スコットだった。
1974年9月、バンドはDave Evansに代わり(Daveはシングル盤1枚だけの参加であった)、オーストラリアでいくつかのバンドで経験のあるボン・スコットをボーカリストとして迎え、翌1975年1月に、たった10日間でレコーディングした1stアルバム「ハイ・ヴォルテージ(High Voltage) 」をリリース(当初はオーストラリアのみのリリースだった)した。このアルバムからは「It's a Long Way to the Top (If You Wanna Rock 'n' Roll)」がシングルカットされ、B面には2ndアルバムのタイトルトラック「T.N.T.」が収録されている。このころからラインナップは安定し、アンガス兄弟、ボン、フィル・ラッド(ドラム)、マーク・エヴァンス(ベース)の編成が暫く続くこととなる。同年12月には2ndアルバム「T.N.T.」をリリース。
また1974年と1977年に、オーストラリアで全国放送されていた音楽番組「Molly Meldrum's Countdown」に出演しライブ演奏を行っており、この頃には名実共にオーストラリアで最も成功したバンドとなっている。これ以降、バンドはテレビ番組でのライブ演奏を行っていない。
1976年、バンドはアトランティック・レコードと世界規模のレコード契約を結ぶ。これによりバンドは KISS、エアロスミス、Styx、ブルー・オイスター・カルトらの前座としてイギリス、ヨーロッパのスタジアムクラスの会場をサーキットすることとなる。1976年9月28日には「ハイ・ヴォルテージ」と「T.N.T. 」の楽曲から再構成されたコンピレーション・アルバムをアトランティック・レコードから全世界でリリース。タイトルは1stアルバムと同じく「High Voltage」である。同アルバムは現在まで300万枚以上を売り上げている。同年には早くも次のアルバム「悪事と地獄(Dirty Deeds Done Dirt Cheap)」をリリース。このアルバムは現在流通している通常盤の他にオーストラリア盤が存在し、ジャケットと収録曲がそれぞれ異なっている。(なおこのアルバムがアメリカでリリースされたのは1981年であり、その前年に発売され、売れに売れていた「バック・イン・ブラック(Back In Black)」の余波を受けて、この作品もロングセラーを記録している)この様なバージョン違いの存在は次のアルバム「ロック魂(Let There Be Rock)」まで続いている。
「ロック魂」のレコーディング終了後、アンガス・ヤングとの不仲が原因でマーク・エヴァンスが解雇され、後任としてクリフ・ウィリアムス加入。
AC/DCは1977年にミシガン州のFlint's Capitol Theaterでアメリカでの初ライブを行った(前座はMC5)。
70年代末、パンクロックブームに沸くイギリスでは、それ以前に活躍したハードロックバンドがオールドウェイブと揶揄され消えていく中、AC/DCは何とか生き残る事に成功する。それはバンドが熱狂的なファンをイギリス全土で獲得していた為であるが、ファンや音楽誌などからパンクと同一視されたという側面もあった。特にライブでのパフォーマンスはパンク的な印象が強く、ボン・スコットのパフォーマンスはセックス・ピストルズのジョニー・ロットンを強くイメージさせた。一方でアンガス・ヤングは観客に向かって尻をさらすパフォーマンスで悪名高かった(?)。
1978年、クリフ・ウィリアムズ加入後初のアルバム「パワーエイジ(Powerage)」をリリース。同アルバムに伴うツアー中にグラスゴーのアポロシアターでレコーディングされたライブ盤「ギター殺人事件(If You Want Blood)」を同年にリリース。1stアルバムから続いたHarry Vandaとジョージ・ヤングによるプロデュースはこのアルバムまでとなる。
1979年、6枚目のアルバム「地獄のハイウェイ(Highway To Hell)」をリリース。プロデューサーはジョン・マット・ラング。このアルバムはアメリカで発売された最初のアルバム(最高位は17位)で、彼らの出世作。また、その後の音楽性の礎ともなっており、AC/DCのバンドサウンドが完成されたアルバムである。バンドが世界的な人気を得るのは、もはや時間の問題であった。……
(Wikipedia: AC/DC)