ストーン・ローゼズ (The Stone Roses)

ストーン・ローゼズ
ストーン・ローゼズ (The Stone Roses、以下 「ローゼズ」) はイギリスのグルーヴロックバンド。 1984年、マンチェスターにて結成。 1996年に解散。

ブリットポップひいては後の音楽シーンに多大なる影響を与えたバンド。

幼馴染のイアン・ブラウン(ヴォーカル担当)とジョン・スクワイア(ギター担当)によって結成される。その後、レニ(本名アラン・レン)をドラマーに迎え、ベース担当のピート・ガーナーとリズムギター担当のアンディ・カズンズを加え、オリジナルラインナップが形成される。

バンド名はローリングストーンズのストーンとポール・ウェラーに傾倒していたイアンがザ・ジャムのイングリッシュローズと言う曲のローズを取ってつけたとされるが諸説は色々ある。ロッキン'オン誌のインタヴューでは硬いもの=石、と柔らかいもの=薔薇の組み合わせであるとも語っている。

彼らは当初、セックス・ピストルズやザ・クラッシュ、ザ・ジャムから影響を受けていたことからも分かるように、展開が速く攻撃的な、パンク色の強い曲を中心とし活動していた。これらは、現在、ストーン・ローゼズの代表曲と称される楽曲の内容とは大きく異なるものである。

1985年、9月に Thin Line Records から両A面シングル、"So Young/Tell Me" をリリースしデビュー。不発に終わる(先に述べた「パンク色の強い曲」とはこの時期のもので、その後彼らはそれらの楽曲を自分達のものと認めていない)。

1987年5月、FM Revolverからセカンド・シングル "Sally Cinnamon" をリリース。セックス・ピストルズ調のノイズを轟々と響かせた曲とは違い、バーズ調の、メロディ重視の楽曲へと大きな進化を遂げる。余談だがノエル・ギャラガーは「初めてこの曲のイントロを聴いたとき、俺の運命を感じた」と述べている通り、この曲から多大な影響を受けている。1996年4月28日にマンチェスターのMaine Roadで行われたオアシスのライヴで、"Acquiesce" 演奏後にノエルは "Sally Cinnamon" のイントロを弾いている。

1988年10月、"Elephant Stone" をリリース。 ニュー・オーダーのピーター・フックがミックスを担当している。この頃までにピート・ガーナーとアンディ・カズンズが脱退(アンディは後に "The High" を結成。アルバム "Somewhere Soon" を発表)、その穴を埋めるべくしてベーシストのマニ(本名ゲアリー・マンフィールド)が加入。いわゆる「黄金期」のラインナップとなる。

1989年2月、シングル、 "Made of Stone" が発売され、NME のシングル・オヴ・ザ・ウィークに選ばれる。 4月、ジョン・レッキーをプロデューサーに迎えた 1stアルバム "The Stone Roses" を発売。 UKチャート初登場47位を獲得する。 この頃から大々的なプレスの取り上げや口コミによってイギリス全土へ名を馳せる。 10月には初来日し、4会場でライヴを行う。 11月、シングル "Fools Gold" をリリース。 バンドにとっては初のチャートトップ10入り (最高位8位) をする。 10分近くもある、バンドにとって最も冒険的といえるこの曲は当初、 "What The World Is Waiting For" のB面の予定だったが、現在では彼らを代表する曲と位置づけられている。 この曲のドラミングはギタリストのジョン・スクワイアによってジェイムズ・ブラウンの名曲; "Funky Drummer" をアレンジした上でプログラムされた。 彼は「'90年代はオーディエンスが主役となる時代」と主張、ローゼズの曲が踊れるのも聴き手・観客の参与をうながす効果を見込んでのこと。 この年のイギリスの殆どの音楽雑誌は、彼らをベスト・ニューカマーに挙げた。 なお、彼らはいつでもいかなる場合も (解散時にいたるまで) 他バンド/アーティストの前座はしない主義を突き通した。 デヴィッド・ボウイやローリング・ストーンズの前座すらも断ったといわれる。

1990年1月、シングル "Sally Cinnamon" の再リリースに際し、バンドに無許可でヴィデオクリップを撮影したことに抗議し、FM Revolver社に乱入、ペンキをぶちまける。 この結果、裁判で有罪判決を受ける。 5月27日、スパイク・アイランドにてライヴを行う。 約2万7千人の観客を動員したこのライヴは、現在では伝説のライヴとされている。 6月に "One Love" をリリース、最高位4位。

1991年3月、裁判の末に所属レーベルをシルヴァートーンからゲフィンに移籍する。

1994年12月、セカンドアルバムとしては異例の5年以上の歳月を経て、ジョン主導で製作された 2ndアルバム "Second Coming" 発売。 UKチャート1位、USチャート47位。 復帰にあたり、インタヴューをホームレス救済雑誌ビッグ・イシューのみで行う。 レッド・ツェッペリンに影響を受けたと思われるこのアルバムはファースト・アルバムの内容とは大きく変化し、賛否両論を巻き起こす。

1995年2月、ジョンの病気のため、ツアーが延期になる。 3月にレニが脱退する。 黄金期のメンバーであり、バンドの特徴でもあるグルーヴの核となっていただけに、この出来事をバンドの終焉という者も多い。 尚、彼の脱退に当たって正式な説明はない。 レニが抜けた穴としてロビー・マディックスが加入。 6月、ジョンがサンフランシスコにてマウンテンバイクで事故に会い骨折。 日本ツアーを含む一部が延期になる。 9月、チャリティアルバム “HELP” にシングル、 "Love Spreads" のロビー・マディックスのプロデュースによる全パート再録版で参加する。

1996年4月、ジョンが脱退する。 理由は、残ったメンバー特にイアンに対する不満や、当時 ローゼズの音造りにおいてきわめて特徴的な役割を果たしていた前代ドラマーのレニが抜け、プロデューサーでもある新任ドラマーがサウンドプロダクションに大きく関わり、ローゼズそのものが更なる変貌を遂げつつあったことへ対する不安があったたため、などと言われる。 ジョンは抜けたものの、バンドは活動続行を決意、ジョンの代わりにエイジアやシンプリー・レッドのセッション・ギタリストであったアジズ・イブラヒムを加える (イアンとアジズとの付き合いはバンド解散後も続き、イアンがソロとなった後もゲストとして頻繁に参加している)。 8月、イギリスで開催されたレディングフェスティヴァルのトリを務めるものの、女性バックコーラス兼ダンサー陣営を加えたそのステージの過激な変化がプレスやファンに酷評される。 これを受け、10月に解散を発表、終止符を打った。……
(Wikipedia: ストーン・ローゼズ)

 
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